万引き家族のラストにりんの表情が訴えかけるもの

息子の祥太(しょうた)の万引きがバレ、警察に捕まってしまった柴田家。

一かは散り散りになり、父治はアパートで独り暮らしを。

母信代は刑務所で罪を償うため服役することに。

そして娘ということで、連れてきたりん(=じゅり)も一家と引き離され、実の両親の元へ帰ることとなりました。

万引き家族りんのラストはどうなってしまったのでしょうか?

そして、ラストシーンに込められた意味とはどのようなものなのでしょうか?

 

元の両親の家での生活

実の両親である北条家に戻ったじゅり(=りん)。

柴田家の元に行く前にも虐待を受けているようであり、冬の寒い中マンションのバルコニーに締め出しにされていたり、アイロンを手に当てられるなどの虐待を受けていました。

そして2か月間行方不明の後戻ってからも、母親からネグレクトの虐待を受けている様子。

これ見てと母親に宝物と思しきビー玉を見せても相手にしてもらえていません。

化粧をしながら「母親は今忙しい」と、冷たく高圧的な態度を取ります。

 

また母親のこめかみにも殴られた後のような傷跡があることから、父親の家庭内暴力は続いている模様。

DVの蔓延する家でよくある構図というのは、暴力的な父親がいて、その父親の期限を損ねないために、言うことを聞かない子供に対して、母親が暴力をふるったり、ひどい言葉を投げつけるというものです。

親自身も自分の親から成育中に虐待を受けていたりしていたことから、負の連鎖が生まれているのです。

 

誘拐先から帰ってきたじゅりが、再度父親や母親から暴力を受けていないという保証はどこにもありません。

映画を見る側に「りん、かわいそう・・・。」と思わせるようにわざと作られています

 

親の愛情不足で育った子供がろくな大人に育つかと聞かれると、難しいものがあります。

親に大切にしてもらえなかったという劣等感から非行に走ってしまいかねません。

虐待を受けて育った子が大人になった時、周りの人や自分の子供に対して暴言や暴力を吐いてしまうような大人になってしまう。

そして自身が抱く劣等感が新たな暴力を生み出す・・・というスパイラル。

この社会問題の難しい構図です。

 

親という一番身近な人間にきちんと接してもらえないだけで、学校や職場の人間関係もうまく作れない原因にもなってしまいます

法律上実の両親のもとにいるべきだ日本ではされていますが果たして本当にこれは正しい選択なのでしょうか?

血の繋がっていない泥棒一家に属していた方が本人は幸せで、いくらかまともな人格を持った人間に成長していた可能性だってあるわけです。

 

 

・・・映画冒頭、信代と治が眠ってしまったじゅり(=りん)を元の家に返しに行った際、部屋から父親の怒号が聞こえてきます。

どうやらじゅりがいなくなってしまったことで喧嘩をしている様で、母親の

「私だって生みたくて生んだわけじゃない!」

という悲しい一言も聞こえてきます。

 

最初は

「ごはん食べさせたら返してきなよ」

と冷たく言う信代でしたが、事の一部始終を知ってから、親元へ返さず保護ならぬ誘拐をすることに決めます。

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万引き家族での生活

柴田家(万引き家族)での生活の中で、りんの顔には笑顔がありました。

もちろん治虫が最初半ば自分勝手に無理やり連れて来たので、おばあちゃん以外からは反発を買いました。
「はやく返して来い」と言う母信代。

「誘拐だよ」という亜紀。

「あんなやつ妹じゃない」と言う息子の祥太。

 

最初は一家もじゅりを親元にこっそり返すことで、それ以上は介入しないつもりでした。

ところが実の親から虐待を受けていたことを知り、誘拐による保護をすることに決めます。

 

特に信代は、元夫に生きるのが辛くなるほどの日常的な暴力を受けていた過去を持っています。

「あんたなんて生まなきゃよかった」と実の母親に言われてこともあります。

家庭内暴力への強いトラウマがあったのでしょう。

だからこそ、じゅり(=りん)の心の苦しみのいい晩の理解者となります。

最初の方こそ、そっけないぶっきらぼうな態度を見せていましたが、生きとる(誘拐)すると決めてからは優しい態度を見せるようになりました。

お互いに暴力を受けているという共通の苦しみを知っているからです。

一緒にお風呂に入りながらゆりは悪くないんだよというシーンは涙を誘われます。

(安藤サクラの演技力がすごい)

 

樹木希林演じるおばあちゃん役もリアルです。

おばあちゃんというのは孫のおせっかいなところにまで目がいくもの。

作中でも「こんなに痩せちまって」と、じゅりの体の傷や寝小便のことまで世話を焼いてあげていました。

 

祥太も最初のほうこそ、「妹じゃない!」と反発してはいたものの徐々に妹として心をゆるしていき、優しい兄のようにふるまいます。

りんのためにスーパーにあるお菓子をあげたり(万引きして)、「今度お前にもおしえてやるからな」と言ってあげたり。(教えんでええ!)

 

もちろん、そんな犯罪教えるなんてとんでもないことですが。(というか絶対だめ。)

誰かに何かの形で必要とされ、存在意義を実感できるって大事なことです。

たとえ泥棒であれ、柴田家にいることはりんにとって自分の存在価値を実感できるコミュニティに属することはメチャクチャ嬉しいことなのです。

人間ひとりぼっちでは生きていけません。

家庭内や職場学校などあらゆる場面で、いじめ、暴力、無視、パワハラ・・・とあらゆる個を踏みにじるような扱いを受けていては、性根がひん曲がってしまいます。

親から必要とされていない存在であるじゅりを、りんとして拾ってくれた柴田家は彼女にとって奇跡のような場所だったわけです。

 

実の親元が幸せとは限らない

ここで1つポイントなのは、この映画は家族愛や家庭内暴力をテーマに描かれた映画ではありません。

(側面として描かれてはいるけど)

この映画があなたに投げかけるものは、「居心地のいいコミュニティとは?」なんです。

つまり”居場所”です。

子供は親を選べないと言うけどその通りで、じゅり(=りん)は望みもしないのに、〇〇家で生まれました。

望みもしないのにじゅりという名前を付けられ、望みもしないのに親から虐待を受けていました。

まだ幼いため、自分の置かれてる理不尽さにさえ気づくこともなく。

一方の柴田家での生活は正反対です。

お金こそないし、部屋はちらかって汚いけどじゅりのことを可愛がり、傷だらけの体の心配までしてくれます。

盗みはするけど、お菓子は食べられるし、海へ遊びに行くための水着だって与えてくれました。

自らりんという名前で呼ばれることを望み、家族の役に立ちたいと願ったのです。

最終的にみんなバラバラになり、居場所を失ってしまうわけです。

 

法律的に正しい北条家と盗みをしなければ生きていけない柴田家。

りん(=じゅり)にとっての幸せな居場所というのは間違いなく後者の柴田家です。

法律や社会の仕組みが作り出す居場所というのは、必ずしも人の幸せに結びついているとは言えません。

 

映画のラストシーン

この映画のラストシーンは、じゅり(=りん)が寂しそうにマンションの外の景色を見つめながらエンドロールが流れます。

その後どうなってしまったのかは一切明かされてません。

映画を見た人に考えて欲しいようにわざと、ひどい環境に取り残されてしまった少女の姿をラストに選んだのでしょう。

家族とは何?ということを考えるように。

 

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