万引き家族についての考察をしてみました。
この映画が最も伝えたいことは何だったのか?
貧困問題を訴えるため?
違う。
家族の愛について描くため?
なんか違う。
・・・是枝裕和監督が『万引き家族』に込めた思い。
それは”幸せな居場所って何”という問題定義だと僕は考えました。
もくじ
スイミーと万引き家族の関係性
スイミーというのは、日本で小学2年生の国語の教科書にも載っている有名なお話。
アメリカの絵本作家レオ・レオニによって描かれた絵本。
そのストーリーはというと、小さな魚スイミーが群れで巨大な魚に見せかけて、大きな魚マグロに立ち向かうというお話です。
スイミーは小さな魚で、仲間たちはみんな赤い体なのにもかかわらず1匹だけ色が真っ黒。
ある日仲間の魚が全員大きなマグロに食べられてしまう。
仲間を失ったスイミーは海を放浪して生きるうち、岩の陰に隠れ、大きな魚に食べられてしまうことを恐れて暮らす小さな魚たちと出会う。
一緒に泳ごうと誘うも、大きな魚を恐れてみんな出てこない。
そこでスイミーは、大きな魚に食べられることなく海を泳ぐために、みんなで固まって大きな魚のフリをして泳ごうと提案。
唯一体の色の黒いスイミーだけが目の役になることで、大きな魚に襲われることなく、海を泳げるようになる。
小魚を襲う大きなマグロを社会と例えるなら、小魚の群れは万引き一家柴田家に当たります。
これがスイミーと万引き家族の対比関係なわけです。
身寄りのない祥太。
親から虐待を受けているりん。
他に誰も家族のいない初枝。
犯罪の前科がある治と信代。
みんな社会の仕組みからはみ出てしまった弱者です。(小魚)
自分を必要とする場所が他に見つからず、生きていくためには家族という群れを作らなければなりません。
群れを形成して生きていくために大事はものというのは、”誰かのため”という愛の精神なんですね。
万引き家族製作後に、是枝監督はこう答えています。
記者からの「社会問題をテーマに選んだ関係上、観衆の対象として監督の頭の中に政治を生業にする人、あるいは官僚、そういった人たちがイメージの中にあったのか」には、「ありませんでした」と即答。「テレビをやっている時代から先輩に言われていたことが、『誰か一人に向かって作れ』『一人の顔を思い浮かべながら作れ』でした」と回顧した。
このインタビューで監督は実際に、「孤児保護施設で出会った、スイミーの朗読をしていた女の子に向けて映画を作ってると思います」と発言。
万引き一家が作中で行う犯罪行為の数々も、誰かのためを思って行った行動です。
スーパーから万引きををする息子の祥太と父治。
親から十分な愛情をもらえていなかった亜紀を新たな家族に迎え入れた初枝。
虐待を受けている親元から誘拐をした治と信代。
ご飯を食べる時もみんな一緒の食卓を囲んでいるし、わちゃわちゃ楽しく海で遊んだりもしています。
子に暴力を振るうことは一切なく、犯罪を犯しながらもお互いを助け合う愛の精神が描かれています。
”家族の誰かのために”という。
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初江が亜紀の実家を訪問していた理由
これは、亜紀の両親からお金を無心するためです。
初枝の元夫の再婚相手との間に生まれた子供の孫にあたる。
一言で言うと他人だけど、仏壇に手を合わせたいなんて理由で図々しくも上がり込んでいた。
ケーキやお茶までご馳走にり、
「あんたのとこの娘預かってやってんだから、何かくれよ」ということ。
帰り際に迷惑料ということで、訪問するたびに3万円もらっていた模様。
お金と亜紀は別問題です。
もちろん初枝自身パチンコ屋のドル箱をネコババしたりと、金好きな一面も描かれています。
でも亜紀を家に置いてあげたのはそもそも、初枝自身も家族の温かみに飢えていたからです。
元夫と離婚してしまったため血の繋がった家族は持てない初枝。素性のよく知れない治や信代を家に置いているくらいだし、自身の年金を家族全員の生活費として使っています。
娘が欲しいという気持ちも強かったのでしょう。
その証拠にお金事態は、亜紀を家に置く以前からも受け取っていました。
お金の無心に行く過程で、亜紀と親しくなり、「家に来ないか?」と誘ったのです。
タイトルの真の意味
元々の仮タイトルは『声を出して読んで』でした。
しかしタイトルでは抽象的すぎます。
内容に目を通したことのある人や、よっぽどのコアなファンでもないと、訳の分からないネーミングです。
宣伝部に変えてくれといわれたことで、再度考案したのが「万引き家族」というタイトル。
作中のいろいろな場面で万引きや盗みを働くシーンがえがかれていますが、この作品が伝えたい事の本質は、別にあります。
万引きという反社会的行為を行う一家に感情移入してしまうように意図的に作られています。
そして「声に出して呼んで」に込められた意味というのは、子供を連れ去って育てた治の心の声を表しているわけです。
作中で祥太は治のことを一度も「お父さん」と読んでいません。「おじさん」と呼んでいます。(呼ぶかどうか迷ってるシーンはある)
そしてこのタイトルを象徴するシーンとして映画の終わり頃、二人で同じ布団に入って会話する場面で
「おれ、おじさんに戻るわ」
と治は発言。
(あ、ネタバレ書きますね)
そしてラストシーン、祥太はバスに乗って治と別れるのですが、一度も視線を合わすことなく、手を振るなどもしませんでした。
最後にひとり、「父さん」とつぶやいたかのような口の動きだけ見せて。
その後家族はどうなったのか?
信代・・・誘拐や死体遺棄の罪を背負い、刑務所に服役することに。
亜紀・・・取り調べの際、おばあちゃんである初枝が自分の両親からお金を受け取っていたことにショックを受けるも、万引き家族での生活が忘れられず、空き家になった家屋を覗きに行っている。
祥太・・・孤児保護施設から学校に通い、勉強に励んでいる。新しい人生を生きていくための決意を固めた様子。
りん(=じゅり)=虐待をする実の両親の元に戻される。取り調べの際、柴田家の生活に戻りたいと発言。
詳しくはこちらの記事を参照ください。
ラストシーンがりんで終わる理由

ラストのシーンでりんは、母親からネグレクトなどの虐待を受けています。
またりんに対して冷たい態度を取っている母親自身も父親から殴られた傷跡が顔の左こめかみについてあります。
明日じゅりに父親が暴力を振るわないという確信はない。
もしかしたらもうすでに振るわれているかもしれない。
今後家庭内暴力や子供に悪影響を与える夫婦喧嘩が止む保証はありません。
離婚して家庭崩壊に向かう可能性は高いです。
映画最後の寂しそうなじゅりの顔。
このシーンに込められた意味は、「果たして実の両親のといることが、幸せな居場所だということができるのか?」
ということです。
家庭という箱の中に納まっていたとしても、誰からも必要とされず生きているだけでは、捨てられているも同然です。
あのまま瞬けとして万引き家族のままでいればりん(=じゅり)は、みんなで楽しく仲良く過ごすことができたわけです。
社会的にはみ出した存在ではあれど、自分のことを必要としてくれる愛すべき居場所なわけです。
けれど一家が警察に捕まり離散してしまったことで、それは壊されてしまいました。
法律的という名の正義によって。
映画ラストでひとりぼっちで悲しそうな表情を見せるシーンに込められた意味は、
「人間にとって最適な居場所はどこですか?あなたはどう思う?」
ということです。
「人間にとって、最適な居場所はどこですか?」ということ。
血の繋がった家族の元にいることが、必ずしも幸せなことではないのです。
すべの子供が、生みの親の愛情を受けて育っているわけではありません。
子供に暴力を振るう親だって世の中いるわけです。
一家離散で一番幸せを手にした人物
戸籍上存在しない偽名を使い、誘拐を働いて作られた柴田家。
みんな結局万引き一家と言う居場所を失ってしまったわけですが、この作品を通じて最も幸せに近づいたのは誰かと問われたら祥太ではないでしょうか?
もちろん施設や学校の生活の様子は細かに語られていないので、何とも言えない部分ではありますが。
もしあのまま柴田家で生活を続けていたら、盗みを働かなくてはいけないし、学校に一生通うことなんてできません。
就職して職を手に入れることすら不可能です。
作中で「自分で勉強できないやつらが学校に行くんだ」
と言う祥太の発言がありますが、裏を返せば自分も学校に行って勉強してみたいという願望だったわけです。
(学校に通いもしないでは、同年代の友達だって1人もできないわけだし)
また映画途中から盗みを働くことに抵抗感を覚えるようになっていきます。
赤ん坊のと気に車に置き去りにしてしまうような親の元に生まれているので、もし治と信代に拾われなかったら、もっと悲惨な人生だったかもしれません。
虐待はおろか、死んでしまっていた可能性もゼロではないでしょう。
柴田家の生活でも、彼は家族のために一生懸命な様子が描かれているし、一緒に笑って生活をしています。
万引き一家での暮らしは、彼にとって居心地のいい場所であったことは間違いありません。
けれどそれが彼にとって本当の意味での幸せにつながっているのか?
と聞かれたら違いますよね。
将来のためにも、学校に通って勉強したほうが成長できます。
新しい出会いや学びだってあります。
いつの日か大人になって、新しい家族を持つことだってできます。
柴田家は総合的に見ると、法律という名の正義によって居場所を奪われた家族というふうに描かれていますが、祥太にとっては新たな居場所を手に入れるきっかけになったわけです。
万引き家族考察のまとめ
以上のことから、貧困や家庭内暴力といった社会問題に焦点を当てつつ、”人間にとって幸せな居場所はどこなのか?”という問題定義だと僕は考えました。
法律的に正義とされる、血のつながりを持つ家族が必ずしも幸せな居場所であるとは限りません。
家族って何?と言ったテーマの映画なら、同じく是枝監督の『そして父になる』がおすすめです。
ということで、今回の考察は以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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